彩磁記

創業の頃

第2回 弁柄と殺虫剤 〜精勤舎から戸田工業へ〜

文政6年(1823年)、戸田工業は、精勤舎として岡山県後月郡西江原村(現在の井原市)に、弁柄の製造を生業として産声をあげました。国内で弁柄が製造され始めて119年後のことです。シーボルトが長崎にやってきた年でもありました。
当時弁柄は、建築の木材塗料、紺染めの下地、漆器、番傘の着色や、陶磁器(赤絵の釉薬)などに用いられました。現在でも岡山県の弁柄工業が栄えた地方、吹屋(岡山県川上郡成羽町)には、弁柄の塗られた古い家々や、弁柄で莫大な財を得た人々の豪邸が残っており、当時の活況を伺うことが出来ます。

しかし、弁柄製造過程で発生する亜硫酸ガスによる環境汚染が原因で、製造停止を余儀なくされ、弁柄の製造は明治40年、広島県の久地工場(現広島市安佐北区安佐町)に移管されました。それに伴い西江原の工場は、大正6年から除虫菊蚊取線香と殺虫剤の生産に切り替えましたが、それも大正9年には広島県安佐郡横川町(現広島市西区)に、営業所ともども移転となりました。

当時、精勤舎といえば、弁柄ではなく、"ラッパ印の蚊取線香"として人々に知られていたとのことです。

蚊取線香は、可燃性のある除虫菊と引火性のある有機溶剤を原料としていたため、火事を起こしてしまい、それを機に、工場は広島市舟入へ三度移されることになりました。

その後、昭和4年には、広島県安佐郡深川村大字下深川(現広島市安佐北区深川)にあった口羽瀬市経営の緑礬(ローハ)並びに弁柄製造工場を買収。同時に久地工場を廃止し、下深川にて弁柄製造を開始しました。これが、現在の広島工場です。
そして昭和8年(1933年)、戸田工業株式会社は設立されました。

※緑礬(ローハ) 山から採掘された磁硫化鉄鉱を風化により硫酸鉄を析出させ、固めたもの。

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