彩磁記

創業の頃

第3回 精勤舎時代 〜細羽氏の思い出(その1)〜

ところで社員の目を通して見た戸田工業は、当時どのような会社だったのでしょうか。精勤舎時代より、第二次世界大戦を経て、昭和44年まで戸田工業に勤められた細羽多市氏のお話をもとに、戸田工業の歴史を振り返ってみます。

大正の初め、西江原(現岡山県井原市)の精勤舎では、殺虫剤の生産のみ行われていたということです。弁柄の生産は立地条件の悪さ(原料の磁硫化鉄鉱の産地より離れている)から、明治40年に広島県安佐郡久地村金山(現広島市安佐北区安佐町)に移されていました。その殺虫剤の生産も、大正9年には広島県安佐郡横川町に移転してしまいました。

細羽氏が精勤舎に入社した昭和8年当時、弁柄は深川工場(現在の広島工場)で、殺虫剤の生産(除虫菊の加工と殺虫剤)は横川町の東洋除虫菊合資会社で行い、横川の本社・営業所で弁柄の包装、出荷を行っていました。

横川の精勤舎は、弁柄染めの格子造りで、二階建ての大きな構えでした。店の奥には弁柄の包装工場があり、数名の工員たちが弁柄に染まり赤くなって働いていました。また、蚊取線香の工場は、敷地が約千坪の広大な工場で、乾燥場は三階建ての立派な建物でした。その工場も殺虫剤の石油缶の封をするハンダ付けの火が元で、何度か火災で全焼していますが、二度の火災までは同じ場所に再建しています。この頃、殺虫剤工場の従業員は10名、深川の弁柄工場も10名足らずの人員で生産しており、深川工場から本社包装工場への運搬も馬車で行い、製品の配達もまだ自転車、リヤカーというようなものが使われていた時代でした。

※細羽氏は、昭和8年精勤舎に入社、戦前は大阪支店と東京支店に勤務されていました。復員の後、吉備工業株式会社(現戸田ピグメント株式会社)に入社、昭和29年に吉備工業を吸収合併(岡山工場となる)後、昭和42年同所工場長となられ、昭和44年に退職されました。

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