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彩磁記

昭和初期の近代化

第5回 大阪出張所 〜細羽氏の思い出(その2)〜

戸田工業株式会社設立の翌年、昭和9年、細羽氏は殺虫剤と弁柄拡売の命を受け、大阪出張所に転勤となり、所長の桑田さんとともに営業を行うこととなったのです。大阪出張所は、もとは浪速区桜川の小さな店舗でしたが、昭和9年に南堀江の表通りに引っ越しておりました。ただ、戸田工業株式会社となって間もないためか、出張所の表には、精勤舎と東洋除虫菊合資会社のふたつの看板が掲げられていました。事務所は、机ひとつを残し、二方は弁柄の木箱で埋まり、蚊取線香と殺虫剤は、近所に倉庫の一部を間借りして、預けていました。

大阪での生活にも慣れてきたある日、道中の見学と気分転換を目的に一日がかりで神戸まで蚊取線香と殺虫剤を配達に行ったことがありました。夕方、ほこりを一杯浴びて店に帰ると、丁度社長が上阪されており、「大阪から神戸までリヤカーを引っ張って行く者も行く者だが、行かす方も行かす方だ」と、すごい剣幕で叱られたそうです。効率に厳しい社長らしい一言でした。

また、当時は事務所の二階に泊まり込んでおりましたが、殺虫剤を売っている店といえども、夏になれば南京虫が押し寄せ(殺虫剤は南京虫には全く効き目がなかったのです)、深刻な睡眠不足に悩まされたことも大阪での思い出のひとつです。
こうして夜は南京虫と戦い、昼はセールスで戦うという大阪での生活が始まりました
昭和9年当時のセールスは、数種類の見本(殺虫剤はすべて実物、弁柄はセロハン紙包)を鞄に詰め、主に問屋をまわっていました。そんなある日、社長から「七五三作戦」なるものが打ち出されました。これは、その日初めて訪問する先が7軒、2回以上訪問した先は5軒、3回以上は3軒、セールスに歩くというものです。新規拡売というものは、これほどのことを行わなければ、容易になされるものではない、という考えによるものでした。

セールスの思い出といえば、社長のお姉さんの紹介で、蚊取線香と殺虫剤を奈良の女子寮(男子禁制)まで売りにいったこともありました。ただ「ラッパ印」の蚊取線香・殺虫剤は、当時まだ「フマキラー」「金鳥香」に押されていました。
一方、弁柄は紅柄格子などの建築用や陶器などの色付け用、漆、ゴム、塗料の顔料など、30種類以上の用途に使われていました。変わった用途としては、西陣織、文化財の陶器や漆器類の他、花札の裏に隠し色として塗っていたようです。
当時は、現在のような複雑な規格はなく、同業者の弁柄と比較する場合は、粉体を紙で押しつぶし、色を判定していました。また、時には硝子板に水塗りする場合もあり、常時4〜5枚の硝子板と、目薬の瓶に入れた水を用意していたものです。
当時、大阪出張所は所長の桑田さんと二名だけでしたが、社長が上阪の折、所長と話をされ、「東京は今人手不足だから、細羽君、応援に行ってもらいたい」ということになりました。

さて、ただ列車に揺られて行けばいいかと思えば、そうではなく、「大阪-東京間の得意先をすべて販売、集金して行け」との命令。なんと、東京へ到着したのは、半月後のことでした。

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