1. HOME
  2. 会社情報
  3. 歴史・沿革
  4. 彩磁記(創業ものがたり)
  5. 戦時下の発展 硫酸鉄への注目

彩磁記

戦時下の発展

第7回 硫酸鉄への注目 〜戦争の足音〜

戸田工業株式会社設立前後の日本は、満州事変(昭和6年)、国際連盟脱退(昭和8年3月)と、第二次世界大戦への道を足早に歩み始めた時期で、わが社も家内工業から徐々にその形態を近代工業化していきました。

当時、取締役社長は、戸田止戈夫で、広島県安佐郡横川町(現広島市西区)に本社、弁柄包装工場、蚊取線香及び殺虫剤の製造工場があり、広島県安佐郡深川村大字下深川(現広島市安佐北区深川)に弁柄を製造する深川工場とがありました。また、同年大阪支店が、翌昭和9年には東京支店が開設されました。

蚊取線香、殺虫剤は、その当時、KINCHOブランドとして知られていた大日本除虫菊株式会社が老舗として確固たる地盤を築いていましたが、弁柄の売込先とタイアップし、東京や大阪方面にも販路を伸ばしただけではなく、満州、朝鮮方面にも野戦用として大量に輸出していました。蚊取線香、殺虫剤の原料は、倉橋島(広島県安芸郡)で栽培される除虫菊で、線香製造過程でのカビの発生を避けるため、湿度の低い冬場に生産を行い、夏場にそれを販売するという形がとられていました。

弁柄は月産約8トンで、関西、関東方面から広く九州、朝鮮、台湾方面に向けて販売していました。「桜花」や「美術の友」は現在も当時の銘柄まま、輪島塗りの顔料、また瀬戸や有田といった陶磁器の釉薬として使われています。当時の包装は、100匁(375g)単位の袋入りで、上物はそれを更に桐の箱に納めるという手の込んだものでした。値段も上物で1kgが約60銭くらいであったといい、当時の日給が約1円20銭といいましたから、随分高価なものだったと言えるでしょう。

昭和11年、横川の工場が火事で消失したのをきっかけに、横川にあった本社及び工場は広島市舟入川口町に新築、移転しました。

昭和15年には、深川工場をクツワ弁柄製造、舟入の殺虫剤加工部門を戸田駆除剤製造と製造部門を独立させ、販売を戸田工業が行うという形態がとられました。

昭和16年には、山口県下松市の東洋鋼鈑株式会社下松工場内に硫酸鉄工場(クツワ硫鉄製造所、現在のクツワ化工)を設置し、弁柄の原料となる硫酸鉄を製造し始めたのです。これは、従来の天然産の磁硫化鉄鉱を1年がかりで風化させて原料(緑礬)を作るという方法では、当時の需要に対応できなくなってきたため、戸田止戈夫が、東洋鋼鈑株式会社で副生する硫酸鉄に着目、短期間で必要なだけの原料を得る方法に成功したことによります。

昭和16年、第二次世界大戦の勃発に伴い、弁柄も軍需物資として活発に利用され始めました。当時、軍港として活況を呈していた呉の海軍工廠へ、軍艦の船底塗料を中国塗料株式会社が納入し、その原料の弁柄製造を戸田工業が受け持つこととなり、以後需要は急速に伸びていったのです。

細羽氏の話によると、苦労に苦労を重ねても、なかなか思うように売れなかった弁柄が、昭和16年あたりから戦争の影響で突然売れるようになり、お金を持参して、「すぐ売ってくれ」という得意先も随分あったそうです。そのため生産が全く追いつかず、見本品さえもすべて売り尽くし、僅か残っている銘柄の異なる弁柄を、家のたらいで混ぜて売ったこともあったということです。

ページ先頭へ