彩磁記

戦後の復興

第12回 吉備工業の合併 〜細羽氏の思い出(その4)〜

戦争が終わり、復員してきたところ、社長より広島に帰ってくるように勧められましたが、家の事情もあって、(社長がその当時オーナーをされていた)地元の岡山の吉備工業株式会社に就職しました。

吉備工業は、明治34年、今の戸田ピグメント株式会社付近にて創業しました。大正9年2月28日、近辺にあった個人経営の4工場(石原弁柄、田村弁柄、長尾弁柄、藤沢弁柄)を買収し、吉備工業株式会社を設立したのです。以前は弁柄の値段も高く、個人経営でも採算がとれていましたが、当時は需要も増え、また、値段も安くなってきたことから個人経営では成り立たなくなっていました。
当時、佐野鉱山(現戸田ピグメントの裏)より掘り出した磁硫化鉄鉱を、人力にて山を越え、工場に運んでいました。一人一回当たり40〜60kgを運ぶのですから、相当な重さです。

運び込まれた鉱石は、薪と交互に組み合わせて焼き(磁硫化鉄鉱は硫黄を含んでいるため火がつく)、緑礬を作り、次に緑礬を焙烙(素焼きの平たい土鍋)に盛って倒焔炉に入れ、二日くらい薪で焼くと弁柄が出来上がります。ただ、焼き上がったものは、炉の中に置かれた鍋の位置や、鍋の表面また内側で質が異なるので、人の目で、濃口(青み、紫に近い)、赤口、黄口(浅口とも言う)に細かく選別し、更に、硫酸分を抜くために何度も水洗いした後、天日乾燥してやっと商品の弁柄になります。こうした仕事は、ほとんど職人の勘に頼って行われていました。今から考えれば、弁柄づくりは随分と手が掛かっていたのです。

その後昭和25年頃から、日比の精練所より硫酸鉄を引き取り、焼くようになっていきました。しかし、硫酸鉄から生産される弁柄は品質が悪かったので、着色紙(ダンボール)や塗料用にのみ使用し、高級品は依然緑礬(ローハ)で作った弁柄が使われていました。

また燃料も、薪、石炭、油と効率的に移り変わっていきましたが、これも原料同様、生産される弁柄の質は薪や石炭の方が、油より良質でした。岡山県の吹屋では、つい最近まで薪を燃やして弁柄を作っていたようです。
その吉備工業も脱税問題が発覚、このことをきっかけに昭和29年に戸田工業に吸収合併され、岡山工場(現戸田ピグメント)となりました。

当時の建屋はほぼ現在と同じ規模で、合併まで事業所は岡山工場にしかなく、営業活動もすべて同所で行っていました。得意先は京阪神方面が中心で、日本ダンロップ護謨株式会社(現住友ゴム工業株式会社)などがありました。

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