彩磁記

公害の克服

第15回 大気汚染の解決 〜公害問題(その3)〜

広島工場付近の住民の抗議行動は、日々激しさを増していきました。“むしろ”旗を揚げての抗議や、工場入口に石を積み上げるといった行動が続き、社員は一時、裏山から出入りしたこともありました。

昭和34年、皇太子殿下のご成婚により第一次白黒テレビブーム(第二次は昭和39年の東京オリンピック)が到来、急速にフェライト材料の需要が伸びていきました。

工場では、公害問題を抱えてはいましたが、フル操業が続きました。それでも生産が追いつかず、猫の手でも借りたいほどで、製品の出荷が貨物列車の出発時刻に間に合わなくて待ってもらったり、出来上がったばかりの製品を冷ます間もなく包装すると熱で破れてしまうことも度々でした。おかげで、売り上げも好調に伸び、当時フェライト材料の市場でシェアの大半を占めるまでなっていきました。

しかし、昭和30年代後半になると、新規参入が相次ぎ、価格競争の結果、販売量は伸びても、売上高の伸びは以前ほど期待出来ない時代になっていきます。

その一方で、頭を悩ませ続けていた大気汚染の解決に一条の光がみえてきました。
大手高炉メーカの薄板酸洗が、硫酸酸洗から塩酸法に切り替わっていったのです。塩酸法では、薄板を酸洗した後の廃液を回収、高温蒸発させ、その時に生じる塩素ガスから塩酸を再生できるというメリットがありました。反面、酸洗で溶解した鉄分が塩酸再生時に「酸化鉄」という形の廃棄物となって大量に発生するため、高炉メーカーでは、その処分に困っていました。公害問題で苦しんできた戸田工業が、産業廃棄物として処分されてきたものを、今度はフェライト材料に再利用することになったのです。

こうして広島工場では、原料の転換により、亜硫酸ガスを発生させてきた製造方法を無公害製法へと切り換え、大気汚染も解決に向かいました。
さらに他方では、原料転換とは別に、無公害製法の研究もすすめられていました。硫酸鉄を用いながら、従来の亜硫酸ガスを発生させてしまう焼成による製法から、化学反応によって酸化鉄を生成させる製法(湿式法)の開発に成功、この画期的-亜硫酸ガスを発生しない、無公害-な製法を用いた設備が、昭和35年、山口県の小野田工場に完成しました。
岡山工場では、小野田工場より生産される酸化鉄を使用することで、硫酸鉄を焼くことがなくなり、旭川汚染と呼ばれた公害問題も解決したのです。

公害問題が終息したこの時代、一方で、京都大学・日本電気株式会社の指導により、世界一高純度な酸化鉄「KFD」が誕生、昭和35年、舟入工場に生産設備が完成しました。

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