彩磁記

公害の克服

第16回 赤い川 〜細羽氏の思い出(その5)〜

昭和29年の吉備工業との合併後、岡山工場では昭和33年に倒焔式焙焼炉を一基、翌年さらにもう一基増設し、弁柄の増産に備えました。しかし時代は高度経済成長期に入り需要は急増。それでも生産は追いつかず、昭和39年にトンネルキルンを設置しました。この設備は、焙烙に入れた硫酸鉄を台車に乗せ、トンネル状の炉の中に連続して入れて焼くもので、一度火をおとすと相当のロスになるため、盆、正月も休まず動かしていました。

弁柄を量産するようになると公害問題が表面化してきました。
公害というのは、硫酸鉄を焼くときに発生する亜硫酸ガスによる旭川汚染です。季節によっては、工場から吹き下ろされるガスで1メートル先も見えないこともありました。公害に対す県、町の住民からの批判は厳しくなり、話し合いを持つために公会堂に集まってもらったり、個々にお酒などを持って謝罪に訪問したこともありました。

また、雨が降ると、工場内のこぼれた弁柄が水に流され、水田や川は赤く染まったのです。ある時、進駐軍の技術将校が工場見学にやって来て、こぼれている弁柄に目を止め、言いました。「もったいない。お金がたくさん落ちている。拾いなさい」
その後、岡山工場(現戸田ピグメント株式会社)は公害防止対策を施し、現在に至っています。

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